83才の夫が5年前書いた 妻への「愛してる」の手紙が3日前。見つかった。
17年前から脳梗塞、脳出血があり右麻痺。7年前からは認知症と診断されていた。一年前から娘の住む千葉の施設に入ったが、その後さらに脳出血や前立腺癌、骨転移などもわかった状態で入院していた。
長い闘病生活だった。家族はこれ以上の延命治療は家族で望んでいなかった。
そんな中、とうとう状態がさらに低下、嚥下能力も落ちてきた。
主治医と話し合って
「チューブ、胃瘻はしないでいきましょう」という約束になった。
妻が前橋の自宅に帰って、病院にもどると、鼻からチューブが入っていて栄養が入れられていた。
主治医に説明を聞きたいと申し出ると
「文句があるのか」「この病院ではいつもこうしている」と逆ギレされた。もちろん「すみませんでした」と謝られたらしいが、主治医への信頼を失った家族は転院、施設への入所など、今後の方針を家族で考え始めていた。そんな時、突然息子から電話があり、いますぐTBSラジオで、「大沢悠里のゆうゆうワイド」を聞くように言われた。なんと、自宅のある前橋で家族の希望通りのことをやっている診療所がある!
早速「緩和ケア診療所いっぽ」に電話すると、介護施設「和が家」を紹介され、見学、面談、すぐ入所と、とんとん拍子(と妻は受け止めていた)に夫婦は前橋へ戻ってくることになった。
和が家では、本人の希望なければ点滴や経管栄養はしない。
本人の望むだけの経口摂取で生きる。食べない時は食べさせない。無理しない。食べなくても、入院させなきゃ、また食べるようになる。無理に食べさせなければ誤嚥性肺炎はおこさない。入院もしないから、「食べさせると危ないです」と言われる事もない。ちょっとの食事、水分でも、さらに微妙なさじ加減がある。ちょっとのちょっとでも食べる機能を使い続ければ、完全に食べられなくなることはない。そして、亡くなる直前まで食べ続ける。つまり普通に人間らしく生き続ける。
高齢者は、医療のおかげでその年まで生きたのではなく、生命力が強いから生き残ったのだ。医療にまかせるより、生命力に期待した方がその人らしく生きられる。医療にかからずに亡くなったらそれは可哀想でなく、寿命なのでは。
熱が出ても抗生物質は使わない。不思議と熱は下がる。そのまま高熱が続いて亡くなることはない。そして、数年の経過で少しずつ弱りながら、誤嚥性肺炎で亡くなるのではなく、老衰で亡くなる。
夫の看取り目的で入所した「和が家」での生活に妻は満足した。スタッフにとってはコミュニケーションがとれない状態だが、妻にとっては十分コミュニケーションがとれる状態のようだ。点滴も経管栄養もないが、それが「自然」に見える妻は幸せそうだった。
自宅からも通える。
「ここに来て本当によかった。夫の表情が穏やかに見えます」
経口摂取はほんのわずか。でも妻にとっては十分。だって口から入るのだから、量より質。それが人間らしさだと感じていた。
お酒が好きだった夫のために、ブランデーを一本、妻が用意し、時々口を湿らせた。
「ありがとう」って旦那さんに言えてます? 僕が聞くと妻は
「ここ2、3年、主人は私に、ことあるごとに「ありがとう」と言うようになりました。それまでは、そんなこと言った事なかったのに」
「で、奥さんは、旦那さんに「ありがとう」って言ってるんですか?」
「いいえ?」
「なんで? 言われて嬉しかったですか?」
「、 、 、」
「奥さんも、『今までありがとう』って返してあげた方がよかったんじゃないですか? 旦那さんだって喜ぶんじゃないですか?」
「そうですね、 、 、」
「そんな事言ったら、おしまいみたいでいやですか? 可哀想ですか?」
「そんな事ないと思います。喜ぶに決まってますよ」
「今の時間は、いや、ここ2、3年はお互いにそれを言う時間じゃないんですか?」
「そうねえ、 、 、」
「『泣いちゃって言えない』じゃなく、泣きながら伝えれば旦那さんは喜ぶんじゃないでしょうか?」
2週間がたち、夫との意志疎通がほとんど出来なくなってきた頃、施設から自宅に戻ってみようということになった。
昨年千葉の施設に入所後、前橋の自宅を売って妻も娘宅に同居予定だったが夫に
「俺の帰る家が無くなっちゃう」
といわれ、処分するのをやめたらしい。千葉にいっても
「前橋の家に帰りたい」と何度も言っていたらしい。
ちょっとの期間なら妻一人で、自宅で看れるかもしれない。
心と体の余裕が出て来た妻に和が家のスタッフが外泊を提案し、訪問介護看護の体制を整えた。背中を押された妻はむしろ喜んで自宅につれて帰る事にした。
娘が前橋にくる時にあわせて自宅に帰った。
自宅に帰ったことは本人はわかったようだった。
夫婦と子供、そして夫の4人で2日間暮らした。何年ぶりの家族での生活だったのだろう。看護師が毎日、ヘルパーさんが一日3回介入し、予想通り子供たちが帰った後も和が家に戻らず、自宅で過ごす事にした。もちろん看取り体制だった。
子供たちが居なくなってから、普段と変わらないリビングの飾り戸棚に「照子へ」と書かれた封書が置いてあるのを妻が見つけた。
誰の目にもとまるはずの場所においてあった封書。
中には妻への手紙があった。
日付は5年前の妻の誕生日だった。
誕生日おめでとう
身体大切にして元気に
心から愛しているよ
常に気にかけてくれて
有難う
心から愛している
ダラシない夫より
気持優しい
愛する妻へ
「愛している」とか「有難う」なんて言った事のない夫。
確かこの頃は、字が書けなかったはず。
まさか主人がこんなもの書いてるとは思わなかった。
「お父さん、ここまで私の事を想っててくれたの!」
子供達もびっくりしてました。本当に亭主関白でしたから。こんな手紙書くなんて。
不思議なんです。
もちろん部屋の掃除もしてたんです。飾り戸棚も。なのに5年間全然気づかなかったんです。
こんなわかりやすいところにあるのに、 、 、 、 、
今朝もあらためて、
「お父さんと会えてよかったです。
結婚生活58年、いろんな事がありました、 、 、 」
昔の事から、ずっといろんな話しを一方的に話しかけて、「ありがとう」を伝えた。いっぱい泣きました。
そしたら、
目をつぶっていた主人が目を開けて
「ありがとう」
と言ってくれました。
わかってくれたなあ。と思いました。
妻は 泣いた。
妻が「ありがとう」をいっぱい伝えたら、、本人も「ありがとう」と言えた。
奇跡です
と妻が喜んでいた。
「ずるいね。男って、こんなんで辻褄あわそうなんて!」
リビングの飾り戸棚においてあったのに気づかなかった。
何で気づかなかったのだろう。5年前から置いてあったわけない。
どこかのタイミングで夫がここに置いたのだろうか。
それは、千葉に行く前(1年前)? まさか、昨日ここに帰って来てから?
きっと、手紙を妻に見せたくて、家に帰ってきたのだろう。
ここに帰ってくるために 和が家に来たのだろうか
和が家に来るために、ラジオを聞いたのだろうか
はたして、どこからしくまれていたのだろうか
手紙に導かれて帰ってきた。
妻に愛を伝えるために帰ってきた。
伝えられた。間一髪、間に合った。
自宅に帰って3日目。いや、5年越しの想い、58年越しの想いが伝わって3日目。
ブランデーで口を湿らせながら
妻は一人穏やかに夫の息を引き取った。