緩和ケア 萬田診療所

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娘からの報告

娘からの報告

  告別式挨拶

  「チーム一江」振り返り

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告別式挨拶

 

一言、ご挨拶申し上げます。

本日は、ご多用中にも拘らず、多数、ご会葬下さいまして誠にありがとうございます。

故人もさぞかし深く感銘して居ることと思います。

また故人の生前中は過分なるご厚誼に預かり、遺族一同、深く感謝致します。

 

生前の母は、「一江ちゃん」の愛称でみなから親しまれ、常に明るく、時には厳しく、いかなるときも、強く、生きていくことを教えてくれました。

そんな母でしたが、四年前、乳がんステージ4が発覚し、みなに心配をかけてはいけないと、ひた隠しの中での闘病生活が始まりました。

癌発覚当時から、全身転移ではありましたが、ひとつひとつの困難も危機一髪で乗り越え、ステージ4の癌患者とは思えぬほどの生命力を頂き、群馬大学医学部附属病院の医師や看護師にも恵まれ、楽しんで通院しておりました。

そんな中、本年に入ってよりは、徐々に衰弱し始め、5月、遂に治療困難となり、母のかっての希望で、「在宅での看取り」を決意し、父、息子とともに、「母らしく最後を‥」と一致団結し、緩和ケア萬田診療所を選択し在宅での介護、看護をスタートしました。

慣れない介護生活に、時には涙し、苦戦することもありましたが、ケアマネージャーの米田さんには常に寄り添って頂き、また、主治医の萬田先生、奥様、あやこさんには、「支える家族の心が一番大切!」と、私と父の心のケアまでして頂き、更にみなで団結を深めては、取り組んでおりました。

その中、群馬県看護協会訪問看護ステーションの富田さんにはたいへんお世話になり、いつしか、母との二人の会話はいつも笑い声が飛び交うようになりました。

抗がん剤治療をやめてから、母は、みるみる元気になっていき、気づけば、やすこさん、りっちゃんとの週一ランチは毎週恒例となり、かねてより花好きの母は、大好きな大渕さんの支えでフラワーパークにも遊びに行けるほどでありました。

そして、生前最後の10日間はまさに、1日1日が母の集大成でありました。

10/1  みんなで行った最後のランチは、長年勤めていた登利平で大好きなとりめしと、うどんを食しました。

亡くなる一週間前には、訪問看護に一緒に来ていた実習生の卒業研究を無事に終え、夕方にはやすこさんが大好きな焼きまんじゅうを差し入れてくれ、美味しそうに食し、

更に5日前には、起き上がるのもやっとの母がトイレに行く!と、父と凛と支え、自力でトイレに行き、

それ以降は、長年の友人が次々と見舞ってくれ、

亡くなる前夜には、大好きなまきちゃん、うたちゃん、そらちゃんが見舞ってくれ、うとうと眠っていた母でしたが、帰り際には「また遊ぼうね!!」と、魂の叫びで送り出し、それが母と最後の会話となりました。

そして、翌日、台風19号接近と緊張感高まる中、「みなの手を煩わせないように」というかのように、、、、最期は、父と二人きりになった僅かの間に息を引き取りました。一時は、両親不仲の時期もありましたが、最後、父が母を看取ってくれたこと、娘として、「父と母のもとに生まれてよかった。生み、育ててくれて、ありがとうございました。」と大感動で胸がいっぱいとなりました。

地球史上最強と言われた台風19号の直前に、母らしく潔く、臨終を迎えられましたこと、まさに、「最高のフィナーレ」であります。

 

これから先、故人亡き後も生前同様のご指導、ご鞭撻をお願い申し上げます。

 

なお、本日の葬儀が滞りなく済みます事は、皆様方のご厚情の賜と厚くお礼申し上げます。

これをもちまして、お礼の言葉と致します。

ありがとうございました。

 

 

 

 

「チーム一江」振り返り   

 

 振り返れば、乳がん多発転移と診断された4年前からの闘病生活でしたが、わたしにとっての本当の闘病生活は、本年からだったと思います。それまでの母は、決して弱音は吐かず。だからこそ、心配はあるものの、深くは聞けず。母一人で治療にのぞみ、病状説明にも呼ばれず。群大診察、治療も私は送迎のみでした。

   いよいよ本年に入ってよりは、治療するたびに、頭はボケるし、排泄は垂れ流し。しかも、毎回、治療できるかできないかは、行かなきゃわからない。行けば行くで、貧血だの輸血だの副作用だので、次の外来まで、どうするの?これでも群大いくの?抗癌剤なんて、いまの母には、効き目はない。もう、かわいそう。と思うものの、、、、治療に執着する母にそんなこと言えず‥。そして、母に隠れて群大内の患者支援センターに、

「どうしましょうー。お母さん、こうこうこうなんです。」と、ソーシャルワーカーに相談しても、治療ができなくなったら、「緩和ケア」のみの選択肢。

 それまでは、ケアマネ付けましょう、と言われるも、最終的には母は拒否。本人の意志がないと話は進まず。もう、すでに私の頭はパンク。

「ケアマネ拒否の場合は、どうしたらよいのかと、このままでは、一家崩壊。どうにか、教えてください~!!」と、市役所に相談しにいったこともあるほど、悩み切っておりました。

 

群大で、

「最期の最期はどうするか」との話になるも、わたしや、じい(父)は、

「在宅医療など無理。こんな汚い家じゃ看護師や医者に来てもらうのも申し訳ない。」と在宅医療は無理、、の方向。また、渋川医療センター緩和ケア病棟のパンフレットを見せてもらった際には、あまりにも綺麗で良さそうだったから、「最期は、わたしもよく行けるし、みんなも来てくれるから緩和ケア病棟で」と頼んでました。

しかし、母は「自宅がいい」と一点張り。

なんとか、ケアマネを付けることに話は進んだが、母は担当してくれたケアマネの米田さんには大反発。全て、嫌々そうに、

「ハイハイ。」とイエスマン。

外来看護師の一場さんに

「ケアマネさんのことは聞くんですー」と伝えると、

「それは、嫌だからハイハイ言ってるんじゃないの?」と。

「そんなこと、考えることもなかった」と、ドキっ、グサっ。なにはともあれ、事あるごとに、米田さんにショートメールで相談しては、指示を仰ぎ。そんなこんなで、5月、外来受診時に、「歩けません!」と米田さんに連絡すると、すぐに来てくれ、車まで運んでくれました。結果的に最後となった外来受診でした。そのときは、やすこさん、あとからじいも来て、

「いよいよ「治療困難」」と宣告。

で、このとき、緩和ケアの話をされ、母は、「家がいいみたい。」と、萬田診療所のパンフレットを受け取った。

「じゃあ、やるだけやってみるか!」と、父と決意。

群大、帰り際には、急遽、卒業式となってしまい、涙、涙となってしまった。

 そして、、、、忘れられないドキドキの中での最初の萬田診療所。

「病院じゃないみたいー!」

と大興奮。

先生からは、

「治療するのと、最後まで歩く。どちらがいいんですか」との問いに、

「最後まで歩きたいです!」と母。

それからの母は、

「最後まで歩かなきゃ!」と、

治療困難と言われたの葛藤の中にも、なにかが吹っ切れたようで、診察に行くたびに、

「萬田先生の奥さん、綺麗だよね~。」とか、緊張感はほぐれていき、診療所の花や木を見るのも、母にとって楽しみになったようで

「次はなんて言われるんだろう」と次第に明るくなり、みんなに「歩かなきゃ!」と言っては、八百屋、スーパー買い物に行くようになりました。

そのうち、周りが驚くほど、食べるは、喋るは、

、、「なにこれ治療してない方がよくない?」と思うほどで‥。

気づけば、疎遠だった、りっちゃん、やすこさんの3ババ週一ランチは、わたしが+1となり、毎週恒例となりました。

 

 元気に萬田診療所に外来通院した4か月の間、わたしの頭がパンクする前に、萬田先生が手を差し伸べて、面談の場を設けてくれた。

 父も、先生との個別面談でどれほど、救われた思いとなり、母への態度が急変化したことか‥。

 「支える家族」の事を思い、真正面から取り組んでくれたこと、これこそ、わたしが求めていたことだ!と思いました。萬田診療所に出会えたこと、なにものにも代え難きです。

 

 萬田先生が「ここの外来に通う人のほとんどはオムツは使わない。歩けなくなったら数日」と言っていたことが心に浸透していたことで、わたしも、父も凛(孫)も「その数日(最後の記録として)」を録画し、「その日」を迎えられました。そして、まさにその通り!オムツはたったの数日。わたしのオムツ替えは、たった1回!。それも、「ごめんごめん」と母に甘えつつ、母に笑われつつ、弾む会話の中に、取り組めたこと、周りの励ましと、大きな達成感、大感動を体験できた素敵な思い出でした。オムツ交換を通して、赤ちゃんの苦労を少しわかった気がして

「人間として生きる」凄さ尊さ、肌身に感じることができたように思いました。

 先生の奥さまが、母とうまく会話が弾まない悩みに「いんだよ~毎日顔合わせていれば、会話なんてないもん。普通でいいんだよ。普通がいいんだよ」と声かけてくれたとき、ハッと肩の力が抜けたのもいい思い出です。

 実習生についてきた看護教授より、

「夫婦って、良くも悪くもかけがえのない存在。親は、良くも悪くも全てを教えてくれる」との言葉は心にとっても響きました。

  お母さんは、痩せこけて小さくなったことで、

さすがに父は、座って手をにぎにぎするくらいで遠慮したが、わたしも、凛(孫)も、介護ベッドに添い寝ができました。

 長年の付き合いの梨屋の叔母ちゃんに報告すると、

「德冨さん、こないだ来てくれたとき、次は来れないかもしれないと言ってたんだよー」、、、8/21に梨屋にいったときにすでに最後の挨拶していたようです。

 

母の最終章

 "チーム一江"は、本当に、萬田先生、奥さま、あやこさん、米田さん、富田さん、看護ステーションのみなさんのおかげで、無事に完走、ゴールしました。5/24~10/2までの外来通院。訪問診療は亡くなった10/11の1日のみ。あっぱれでした。

 母は家族、友人、近所ではムードメーカーのようで64歳の若さで誰よりも先に!逝きましたが、この母だからこそ、「最後まで生き抜く」「家に帰ろう」(萬田先生の講演と著書)を身をもって教えてくれたこと、母の強さ、今しみじみ感じております。

 母の全てが想像を絶する、泣き笑い、想定外、奇跡の連続で、大忙しの毎日でしたが、右も左もわからぬ私たちを皆さんが、がっつり支えてくれるおかげで、いかなるときも、強く、明るく、「みんなが助けてくれる」の安堵感と、決して裏切らない結束力で、乗り越えることができました。いま思うことは、

「在宅で本当によかった」

との思いでいっぱいです。

 全ての人たちが、みんな良い人のみで、心ひとつに最高のチームでした。

 私も、父も、凛も、こんなにも素晴らしい時を過ごさせて頂き、今後、私たちが病に伏した際には、このチームに

「最後まで生き抜く」をお願いしたいです。

 先生の著書「家に帰ろう」は、私が8月に購入し、父に見せました。母の好きな日本庭園の本とともに、「家に帰ろう」も祭壇に飾らせて頂いてますが、今だからこそ、滲み入るものがあります。

 母は、先生の著書に出てきた方のようになれるのかとよぎりましたが、まさにー!本のようになれたよ!と自己満足ではありますが、最高です。

 

結局、

なにを伝えたいのか、

わからなくなってしまいましたが、本当に、感謝しております。日が暮れてしまうような長文で、本当に申し訳ございません。

 

先生、このたびは、本当に、ありがとうございました。

 

             德冨 一江娘 優紀

 

徳富家動画 6月の外来受診時の様子

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  2019.12.10